「目標を立てなさい」と言われるたびに、手が止まります。何を書けばいいか分からない。書いてみてもしっくりこない。細かく分解したのに、気づけば何も動いていない。
私はつい最近、この状態にどっぷりはまりました。そこから抜け出すまでに気づいたことを、ここに書いておきます。
「分解が足りない」という誤解から始まった
最初、私は原因を粒度の粗さだと思っていました。目標をもっと細かく砕けば動けるはずだ、と。有名なマンダラチャートを思い出したこともあります。中心に一つの目標を置いて、それを支える八つの要素に割り、さらにそれぞれを八つに砕いて、合計六十四の行動を作る。あれだけ細かくなれば動けるに違いない、と。
でも、よく考えると順番が逆でした。あのチャートで効いていたのは六十四という数ではなく、中心に置いたものが一点に絞られていたことです。六十四個は原因ではなく、結果でしかない。
実際、私の手元には既に細かいメモがありました。資産形成の順序も、書いているものの方向も、続けている勉強の型も、全部書き出してあります。それでも動いている実感が薄い。分かりました、細かさは足りていた。足りていなかったのは中心でした。
では「中心を決める」だけで動けるのか
なら中心を一つ決めればいいのか。そこでまた詰まりました。
目標設定には四つの段があると思っています。
- ゴール:達成したい状態
- 基準:どうなっていれば良いと判断するか
- 能力:そのために何ができる必要があるか
- 行動:今週、実際にやること
上の三段は「描く作業」で、動く作業は最後の一段だけです。多くの場合、上三段で達成感を感じて止まります。私もそうでした。ゴールを書いた時点で、何かやり遂げた気分になってしまう。
行動まで落とすための判定基準として、私が使っているのはこれです。その行動が、自分の一番忙しい週を生き延びられるか。「営業力を磨く」は生き延びません。「金曜の夜に一件だけ記録を書く」なら生き延びられる可能性がある。この問いに通らないものは、行動ではなくまだ方針の段階です。
でも、それ以前の問題がありました。ゴール自体が空白だったのです。今の課題を解決したその先に何があるのか。それで何をしたいのか。そこが書けなかった。
十年後の「何でもない火曜の朝」を書いてみた
行き先を出すために、こんな問いを立ててみました。
十年後、平日の火曜日の朝、何をしていますか。
理想の一日ではありません。特別な日でもない。何でもない普通の平日の朝です。何時に起きて、誰といて、午前中を何に使っているか。
書いてみると、出てきたのはこうでした。大好きな人と一緒にいて、子どもを育てていて、会社に行っていて、株を持っていて、家があって、不自由なく暮らしている。
ここで自分でも意外だったのが、「会社に行っている」という部分でした。
それまで私は、資産を形成して独立する方向で考えていました。会社に雇われ続けることへの抵抗感もあった。なのに、自分が十年後の像として自然に置いたのは、普通に働いている姿でした。
これは矛盾ではなく、情報だと思いました。私が本当に欲しかったのは、会社を辞めることではなかった。辞めなくてもいいが、辞められる状態、それが欲しかった。会社に縛られているから嫌なのであって、辞める必要があるわけではない。差はその一点だけです。この気づきは、細かく分解するだけでは出てこなかったものでした。
「不自由なく」の中身が書けなかった
十年後の火曜の朝まで書けました。でも次で止まりました。「不自由なく暮らしている」の中身です。何ができていれば不自由がないと言えるのか。
最初は「好きな時に好きなことができる余裕」と言いました。でもこれは、達成したかどうかを今日測れません。測れない基準は、来月も同じ場所に放置されたままになります。
言い直してみると、「選べる幅が広いこと」でした。選択肢の幅は、四つの掛け算で決まると考えています。
- お金:断れる、辞められる、買える
- 能力:呼ばれる、雇われる、自分で稼げる
- 時間:空いている時間があるか。埋まっていたら選べない
- 関係:頼める相手、誘える相手がいるか
どれか一つ欠けると、他が揃っていても選べません。お金があっても時間が全部埋まっていれば選べないし、時間があっても声がかからなければ選べない。
ここまで整理して、「では今、塞がっているものを挙げてみよう」となりました。そして、そこで完全に止まりました。
塞がっているものが分からないのではありません。そもそも選択肢が想像できないのです。
材料は、考えても増えない
なぜ想像できないのか。理由ははっきりしています。見たことがないからです。
会社員として十年先を歩んだ人の生活も、独立して働いている人の平日も、子どもが小学生になった家庭の朝も、内側から見たことがありません。見たことのないものは、選択肢として頭に浮かびません。これは能力の問題ではなく、情報の問題です。
料理で例えると分かりやすいと思います。冷蔵庫を開けて何を作るか考えるとき、食べたことのない料理は候補に上がりません。レシピを思いつく力ではなく、食べたことがあるかどうかで候補の数が決まる。人生設計も同じで、見たことのある生き方の中からしか選べない。
そして重要なのは、材料は考えても増えないということです。机の前でどれだけ唸っても、冷蔵庫の中身は増えません。
本や記事でもあまり増えません。そこに載るのは、年収や肩書きといった表向きの情報です。必要なのは「平日の火曜の朝に何をしているか」という粒度の話で、それは実際に会った人からしか出てきません。書かれた文章ではなく、会話の中にある。
だから次にやることは一つだった
十年後の自分に近いかもしれない人に、一人会って、平日の一日を聞く。ただそれだけでした。
聞くのは「どうすればいいですか」ではありません。それだと相手の物差しが入ってきます。聞くのは事実だけです。何時に起きるか。何にお金を使っているか。何を諦めたか。何が思ったより良かったか。
事実なら、そのまま材料になります。一人でいい。会って、聞いて、書き留める。それが一件目です。二人目、三人目と溜まったところで、初めて「自分はどれに近いか」が判定できるようになります。
会う相手を探すとき、「理想の人物」を探そうとすると見つからないまま終わります。一人に全部揃っている必要はありません。むしろ揃っている人を探すと、そんな人はいないという結論になって止まります。
代わりに、十年後の像に出てきた要素を分解して、要素ごとに別の人に会う形が現実的です。資産形成を実際に続けている人、家を買った人、子どもが小学生の家庭を内側から知っている人。それぞれ別人でいい。
探す場所も、順に近いところからです。条件から詰めるより、顔が浮かぶ人がいるならそこからのほうが早い。「誰に一件目を聞くか」、今思い浮かぶ顔がある人は、そこから始めるのが一番早いと思います。
まとめ
- 人生設計が埋まらないのは意志が弱いからでも、分解が粗いからでもない。見たことのない人生は想像できないという、材料の問題だった。
- 「十年後の何でもない平日の朝」を書くと、自分でも気づいていなかった本音が出てくる。私の場合は「辞めることではなく、辞められる状態が欲しかった」という気づきがあった。
- 材料は考えても増えない。机の前で唸るより、一人に会って事実を聞くほうが、選択肢を増やす最短ルートだった。
次にやること
- 「十年後の火曜の朝」を実際に書いてみる。理想ではなく、何でもない平日として描く。
- 書いた像から要素を三つ取り出して、それぞれに近い人を一人ずつ思い浮かべる。
- 一件目の相手に連絡して、「平日の一日の過ごし方を教えてください」とだけ聞く。アドバイスは求めない。


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